公開資料(展示資料)

エジソンの蓄音機

エジソンの蓄音機

音を入れ物に収め、好きなときに取り出して聞きたいという欲求は、古くからの人間の夢でした。
この夢を実現したのが、発明王トーマス・エジソンでした。エジソンは、1877年(明治10年)に実際に音を録音し、再生することのできる蓄音機を発明しました。
エジソンは、銅製の円筒(シリンダー)に錫箔を巻き付けたものを手で回転させ、振動板に直結した録音針を錫箔に押し当てて、錫箔の変形としてつくられる溝の深さを音の強さに応じて変化させることにより音を記録しました。そして、この溝を針で再びたどらせることにより、音を再生したのです。
エジソンは、この世界最初の録音・再生機をフォノグラフPhonographと名づけて発表しました。最初の公開でフォノグラフから再生された音は、エジソン自身の声による「メリーさんの羊」であったと伝えられています。
エジソンのフォノグラフはその後、電話の発明者であるベルらによって改良され、銅管に錫箔を巻き付けたもののかわりに、円筒形の厚紙の上にワックス(蜜ろう)をかぶせたものをレコードとすることで、音量の増大、寿命の向上が図られるようになりました。
エジソン蓄音機が日本に紹介されたのはかなり早く、1879年(明治12年)でした。
ここに展示してあるエジソン・フォノグラフの型式は、トライアンフ「ModelCandD」です。

エジソンダイナモ

エジソンダイナモ

エジソンダイナモは、1879年(明治12年)にトーマス・エジソンの研究によって完成した直流発電機です。
トーマス・エジソンのダイナモ研究は、有名な電灯計画の重要な一環として、それまでの発電機の改良の方向がアーク灯をつける電源として定電流発電機を作り出すことにあったのに対し、エジソンは白熱電灯のための定電圧発電機の改良に主眼を置き、1879年秋ニュジャージー州のメンロパークの機械工場で第1号機が誕生しました。
我が国で輸入されるようになったのは、1885年(明治18年)に東京銀行・官報局などで電灯用として4台、それ以来、1891年(明治24年)まで61台に達しました。
しかし、我が国で現存するエジソンダイナモは少なく、国立科学博物館、東京大学工学部(東北電力の展示館に展示中)東京理科大学、それに本学の4台程度しかありません。そのうち、発電可能なものは本学の1台のみで、歴史的にも貴重なものです。
ここに展示してあるエジソンダイナモは、芝川製紙(元王子製紙・芝川工場)に1897年(明治30年)6月に使用が認可され、水車を原動機として、工場内で負荷として電灯を点灯し、大正初期まで約20年間使用されたものです。
本学では、1965年(昭和40年)5月に(社)東京電機大学校友会の岳南電機会(静岡県)から寄贈を受け、実験室に設置していました。その後の文献調査により、本機が‘1888年型エジソンダイナモ’と同型で、発電機の歴史を知る上で貴重なものであることが判明しましたので、本機の修復を精工舎製作所に依頼し、保存することとしました。
修復に際しては、使用材料は原機と同じ材料を用いることとし、材料の調達、工法に苦心を重ねながら、主極および電機子の絶縁紙の修復、電機子バインド線の修復、軸受の整備、整流子面の研磨ブラシホルダーの再生などを行い、1978年(昭和53年)に復元に成功しまし た。復元後は、本学高等学校の当時の小石川校舎電気科実験室に設置し、貴重な教材として活用してきました。
このエジソンダイナモは、本学のみでなく、NHK教育テレビ、国立博物館発行の季刊誌「自然科学と博物館」、科学朝日などにも紹介され、生きた教材となっています。また、1985年(昭和60年)に筑波研究学園都市で開催されたEXPO‘85(国際科学技術展覧会)では、我が国の科学技術の歩みを伝える「歴史館」に、明治期における西洋近代科学技術の導入のひとつの例として、このエジソンダイナモが展示されました。

直流電位差計

直流電位差計*電機学校の実演室 階段教室で教師が実験を行い、それを多くの学生に見せて教育効果を図ることを目的として、昭和3年に250名収容の階段教室を設置しました。この実演室の特徴は、実演して見せる電気機械を車輪付きの架台に乗せて、室内に設置されたレール上を移動できる方式としたことと、教材の計器類の文字板を透明なガラスで作り、指針と共にこれを下からレンズを通して照らし、スクリーンに写す透写式計器(実物OHP方式)を考案、活用したことです。(横河電機製作所製)

直流電位差計は、直流(起)電圧を測定するための装置です。
直流(起)電圧を簡便に測定するには、電圧計を用いますが、読取有効桁数が少ないこと、電圧計(当時は可動線輪型が多用されました)の内部抵抗がそれほど大きくないこと、などにより精度の高い測定をすることはできません。
直流電位差計は、さらに正確に起電圧の値を知りたい場合に用いられます。
本装置は、この直流電位差計の動作原理を多勢の学生にわかりやすく実演しながら説明するために、特に大型に作られた装置で電機学校(東京電機大学の母体となった学校で、当時神田にありました)の実演室*にて使用されました。
この実験室は、本学の教育理念の原点である実学教育を象徴する設備の代表でした。

P.O.箱

P.O.箱

このP.O.箱(Post-OfficeBox)と呼ばれる装置は、中程度の大きさをもつ電気抵抗(0.01~数100KΩ)を測定する装置です。
このP.O.箱に直流電源、検流計および電気抵抗を測定したい抵抗体をつなぐことにより、ホイート・ストーンブリッジと呼ばれる電気回路が形成されます。
本装置は、このホイート・ストーンブリッジを用いた電気抵抗の測定原理を実演しながらわかりやすく説明するために、多勢の学生に見やすいように特に大きく作られております。
本装置は、電機学校(東京電機大学の母体となった学校で、当時神田にありました)の実演室にて、昭和初期より昭和40年頃まで活用されました。(横河電機製作所製)

電動式モンロー計算機

電動式モンロー計算機

数の計算を行う場合に、筆算ではなく機械を使って計算するという考えは古くからありました。簡単なものではそろばん、計算尺など、複雑なものでは電子計算機があります。
科学技術の発達に伴って、複雑な計算を迅速に行うことが要求され、機械式計算機はさらに電子式へと発展しました。
電子式は、統計、集計などの情報を速く処理することも可能なので、科学的な計算だけでなく、広く情報処理機械として普及するようになりました。
1642年、パスカルは歯車を組み合わせて数の加算が容易にできる機械式計算機を発明しました。その後1671年ライプニッツが、乗算を加算のくり返しで、除算を減算のくり返しで行うことのできる四則計算機を製作しましたが、いずれも実用化には至りませんでした。実用化された最初の計算機は、1891年スウェーデンのオドナーが製作した機械式計算機でした。
20世紀に入って、機械式計算機は改良が進み、電子式が普及するまで研究用また商業用に広く利用されました。機械式計算機には、ハンドルで置数装置を回す手動式と、モーターで回す電動式とがありました。
ここに展示してある電動式モンロー計算機は、機械式計算機の晩期のもので、昭和30年代に30数万円の値段がしたものですが、加・減算および乗・除算しかできず、機能の面では、現在の最も安い値段の電卓にも及ばないものです。

五球再生式ラジオ

五球再生式ラジオ

ラジオの歴史は、1888年(明治21年)ヘルツが電磁波(電波)の存在を実証し、1896年マルコーニが初の無線電信実験に成功して、電波による通信の可能性が開けました。
1900年(明治33年)にアメリカのフェッセンデンが高周波発電機式無線電話を発明、1906年のクリスマス・イブにマサチューセッツ州ブラントロックの実験局からこの無線電話(長波)によって音楽と挨拶を電波にのせました。これが最初のラジオ放送であろうと言われています。
また、翌1907年(明治40年)には、アメリカのド・フォレストが三極真空管を発明し、ラジオ放送に欠かせない連続電波の発生と変調装置発展の基礎を開きました。1920年(大正9年)アメリカのウエスティングハウス社がピッツバーグにKDKA局を開局、これが世界最初の固定のラジオ放送局となりました。
日本では、1921年(大正10年)に民間人によって初めてラジオ電波が発射され、1925年(大正14年)7月から(社)東京放送局が芝愛宕山の局舎から1キロワットで本放送を開始しました。
ここに展示してあるラジオは、五球再生式で昭和初期に作られた国産品で、当時はとても高級なものでした。

日本初「日本語ワードプロセッサ」

日本初「日本語ワードプロセッサ」

昭和53年(1978)9月、東芝は日本で最初の「日本語ワードプロセッサ」TOSWORD JW-10を発表。
英語と同じキーボードから入力したひらがなを、コンピュータの辞書でかな漢字変換する仕組みを初めて採用した。
本体、ディスプレー、プリンタがセットで630万円。多彩な機能とコストパフォーマンスで、一躍ヒットになる。

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